itoshikiの日記

自身のための覚え書きしかございません。推しの話はしていません。

愛とは

今や独り身に慣れた生活を送っているが、同棲する恋人がいた過去がある。

関係が始まって1年ほど経った頃、何やらもっともらしいことを言って私名義で借りていた賃貸を夜逃げした年上の彼、思い出してみるとちょっと何が起こったのかよくわからないが、“人生何事も経験である”と思えるようになった出来事である。

 


そんなことが起こった時、これでもかと泣いて物思いに耽る日々を送った。ひたすらに悲しくて仕方がなかったが、何故別れを告げられたのか自問自答を重ねるにつれ、自身の感じている悲しみは彼と恋人関係が解消されてしまったことに起因しているのではないということに気がついた。

賃貸契約に関する損害、直前嘘を吐かれていた事実(何故か丁寧に嘘を自白してくれた)、関係があった時の我慢のあれこれ(これは全くの自己責任)によって自尊心を踏み躙られたと感じていることが毎日の涙の原因であった。

 


そう気づけば、次なる疑問は「果たして私は彼を愛していたのか?」である。

自身のトラウマをわざわざ掘り返して考えてみても未だ答えは判然とせず、寧ろ判然としていないのが答えでもある。

 


「愛する」という他者への働きかけは尊いものだという認識がなんとなくあるが、よくよく分析してみるとそれは「他者への愛」ではなく、ただ「自己愛」を他者という鏡に反射させていただけだったということもある。

自身の行いを振り返って「あれは自己愛だったな… 」と反省することもあれば、この人は私を鏡にして悦に浸っているなと感じることもある。

もっとも、対人コミュニケーションは受け手がどう思うかに重きが置かれているもので、どんなに愛の真実性を説いても相手が真実と見なさなければ、無情にもその愛は愛として存在することができない。相互に確かめていかねば実在を認められないという点はなんとなくそれっぽいなと思う。

 


それを踏まえて「愛とは?」という問いを投げかけられても、私はすぐ答えを出せない。折を見て考え続けているが、今でもよくわからない。ウンウン唸ってひとまず出した答えは「愛とは見返りを求めないこと」である。

考えている途中、「無償の愛」という言葉が頭をよぎった。「無償の」とわざわざ頭につくくらいなのだから、愛というのは常に何かを消費・犠牲にして生まれるものなのだろうなと思うし、そういう心当たりもある。私の心が狭いだけかもしれないが、見返りを求めず何かを犠牲にしたり差し出したりというのは、簡単にできるものではない。

 


考えは尽きないし、きっとこれから他人と関わっていく中で変化していくのだろうけれど、今のところ私にとって、「無償の愛」こそ「愛」である。と締め括らせていただく。

 

(2021年8月21日追記)

この日記の結びについてずっとモヤモヤしていた。なにやらこう、収まりの悪い感じがしていたのだ。

「愛」についてよくわからないと言っているのに、無理矢理今の段階で結論付けようとしてしまったのが要因だろう。

「無償の愛」こそ「愛」であると信じていたいというのが本当のところで、今の私には偉そうに断言でこの話題を締め括ることはできなかった。

とは言え一度締め括ろうとした無様な文章を消して書き直すのもなんだか狡い気がするので、そのまま残した上で追記という形を取ることにする。