ぬくぬく
熱を逃す薄さのブランケットと接触冷感のツヤッとしたベッドカバーをベランダから取り込んだ。これからしまいこむとは思えないほど日光の暖かさを含んだそれらを空っぽの収納ケースへと収める。
代わりに、先日洗濯した掛け布団と毛布、保温ベッドカバーを寝床に広げる。
分厚くてもこもこしたそこへ思いっきり体重を預けると、綿が体をぬっと飲み込む。その感覚に嬉しくなって掛け布団と毛布をめちゃくちゃに掴んで体に巻きつけた。髪の毛がぐちゃぐちゃになっているがそんなことは気にしない。団子になった寝具のふかふかの中心になっている快適さと、お気に入りの柔軟剤の香りとが満ちた暗闇が私は大好きなのだ。身を捩ると、10月にそぐわない半袖のTシャツから露出した腕に一瞬涼しげな感覚がして、すぐに体温と馴染んでいく。それがまた心地よくて数回寝返りを打った。
やっと夏が終わる。
凍えて動けなくなる冬より夏の方がいくらかマシだと延々主張し続けた私だったが、今年の夏には何度も殺されかけた。日差しの厳しさに防ぎきれなかった日焼け、帰宅時には蒸し風呂状態の自室、消せなくなったエアコン、忍び寄る脱水症状……
芋栗南瓜のスイーツを見かけるようになり、そのうちハロウィンのカラーリングが目につくようになった頃、ようやく涼しさを認めることができた。
ある日、最高気温が28℃の予報を見たが、10月の文字に躊躇して薄手の長袖ブラウスを着て出かけた。予想を上回る厳しい日光と暑さ、それを乗り越えて立ち寄った雑貨屋に並ぶクリスマス商品、2つの間に感じたちぐはぐさがなんだか可笑しかった。
きっと冬の寒さがピークを迎えた頃、夏の方がマシだ!とまた言い出すのだろうが、今はこれから来る寒さに向けてふかふかの布団を準備する楽しさと、冬服を着られる楽しさを手放しに満喫しようと思う。
眠気に勝てない休日
のそりと起こした身体に纏わりつく怠さに身を任せてしまいたくなる昼下がり。なけなしの抵抗で布団を剥ぎ、ベッドから降りた先の床にゴツと柔く後頭部を打ちつけた後、ズルズルと重力に身を任せた。
薄いカーペット、乗せた体重のせいで床の固さに節々が痛い。
寒い。
デジタル時計を見やると室温は12℃であった。ゴロリ、寝返りを打つ。
弛ませたカーテンの隙間から、昼間の日光が暖かさを伴って室内に差し込んでいる。
ゆらゆらと何に反射しているのかわからないモヤがカーペットの上をゆったり滑った。
滑らかなその動きから水面を連想した私は、この床が水面だったら、と夢想した。
そうしたら私の身体は沈んで沈んで、上から差し込む柔い日差しをぼんやりと見上げて揺蕩うのに。こんな時にも目先に浮かぶ色は藍だ。
なんてくだらない自身の妄想にひとりニヤついて「よっこらせ」と身体を起こす。
寝起きのカフェオレを淹れるため、冷えたキッチンの床を踏みしめた足裏が痛んだ。
深夜徘徊〜夏の陣〜
深夜思いつきでひとり気ままに散歩をするのが学生時代から好きで、私はそれを“深夜徘徊”と呼んでいる。そう話をするとありがたいことに多方面から心配の声が飛んでくるが、気に入っているので言い換える気はさらさらない。
人気のない街や公園を好きな音楽と共に、物思いに耽りながら彷徨くのはたいへん気分が良いもので、大抵1時間ほどで帰宅する。
仕事を終えて帰宅すると、室内温度が35℃を示しているのが日常のこととなってしばらく経つ。ブルーレットと部屋の芳香剤が、蒸発しているのか急激に減っていて怖いし香りの主張が激しい。日中外へ出れば、紫外線が布を貫通しているのではなかろうかと思うほどの痛みを伴って肌という肌をジリジリと焦がしていくし、蝉が騒がしくなった。
普段は自宅周辺を彷徨くに留まる深夜徘徊であるが、先日は友人の助けを借りて海辺に足を伸ばしてみた。同じ時間帯でも街中とは静まり方が違う。
まずスマホのライトを点けなければ全く何も見えないほど暗い。一寸先は闇とはこのこと、久しぶりの感覚である。iPhoneのライトでは心許なく足元の危険物の認識が困難であったため、共に歩いてくれた友人は犬の糞を、私は巨大なショウリョウバッタ(のような虫)を踏みそうになり、騒ぎよろめきながら歩いた。辺りに民家はなく、あるのは山と墓地、そして海。人通りも全くと言ってよいほどないが、時たま釣り人が無言で堤防に佇んでいるので、反射的に口から飛び出そうになる悲鳴を何度か飲み込んだ。
街灯がないというのは不便なことばかりではなく、上を見上げると視界いっぱいに星が瞬くのが見える。水平線に近いところまで星を確認できるため、空のほぼ180度全てに星が散りばめられており、視野が広がった感覚と共に、昨年思いつきで花火をしに海へ行き、流れ星を7つ見たことを思い出した。
思えば、その時私の隣にいてくれたのも、今深夜徘徊に付き合ってくれている友人であった。
両手で、下手をすると片手で足りるくらいしかいない、私が自発的に友人と呼べる友人。数は少なくとも、そういった友人がいること自体ありがたいことで、縁に恵まれているなとしみじみ思う。
じっとりと張り付くTシャツに生温い風、草の匂いと海の匂い。波の音と虫の声、たまに通る車の走り去る音。真っ暗闇の足元、明るい星空。
私を取り巻く全てが贅沢に感じられて涙が出そうになった。横を歩く彼女にとっても、今この時間が良いものでありますように、と少し願った。
愛とは
今や独り身に慣れた生活を送っているが、同棲する恋人がいた過去がある。
関係が始まって1年ほど経った頃、何やらもっともらしいことを言って私名義で借りていた賃貸を夜逃げした年上の彼、思い出してみるとちょっと何が起こったのかよくわからないが、“人生何事も経験である”と思えるようになった出来事である。
そんなことが起こった時、これでもかと泣いて物思いに耽る日々を送った。ひたすらに悲しくて仕方がなかったが、何故別れを告げられたのか自問自答を重ねるにつれ、自身の感じている悲しみは彼と恋人関係が解消されてしまったことに起因しているのではないということに気がついた。
賃貸契約に関する損害、直前嘘を吐かれていた事実(何故か丁寧に嘘を自白してくれた)、関係があった時の我慢のあれこれ(これは全くの自己責任)によって自尊心を踏み躙られたと感じていることが毎日の涙の原因であった。
そう気づけば、次なる疑問は「果たして私は彼を愛していたのか?」である。
自身のトラウマをわざわざ掘り返して考えてみても未だ答えは判然とせず、寧ろ判然としていないのが答えでもある。
「愛する」という他者への働きかけは尊いものだという認識がなんとなくあるが、よくよく分析してみるとそれは「他者への愛」ではなく、ただ「自己愛」を他者という鏡に反射させていただけだったということもある。
自身の行いを振り返って「あれは自己愛だったな… 」と反省することもあれば、この人は私を鏡にして悦に浸っているなと感じることもある。
もっとも、対人コミュニケーションは受け手がどう思うかに重きが置かれているもので、どんなに愛の真実性を説いても相手が真実と見なさなければ、無情にもその愛は愛として存在することができない。相互に確かめていかねば実在を認められないという点はなんとなくそれっぽいなと思う。
それを踏まえて「愛とは?」という問いを投げかけられても、私はすぐ答えを出せない。折を見て考え続けているが、今でもよくわからない。ウンウン唸ってひとまず出した答えは「愛とは見返りを求めないこと」である。
考えている途中、「無償の愛」という言葉が頭をよぎった。「無償の」とわざわざ頭につくくらいなのだから、愛というのは常に何かを消費・犠牲にして生まれるものなのだろうなと思うし、そういう心当たりもある。私の心が狭いだけかもしれないが、見返りを求めず何かを犠牲にしたり差し出したりというのは、簡単にできるものではない。
考えは尽きないし、きっとこれから他人と関わっていく中で変化していくのだろうけれど、今のところ私にとって、「無償の愛」こそ「愛」である。と締め括らせていただく。
(2021年8月21日追記)
この日記の結びについてずっとモヤモヤしていた。なにやらこう、収まりの悪い感じがしていたのだ。
「愛」についてよくわからないと言っているのに、無理矢理今の段階で結論付けようとしてしまったのが要因だろう。
「無償の愛」こそ「愛」であると信じていたいというのが本当のところで、今の私には偉そうに断言でこの話題を締め括ることはできなかった。
とは言え一度締め括ろうとした無様な文章を消して書き直すのもなんだか狡い気がするので、そのまま残した上で追記という形を取ることにする。
虚ろな幸福感
目が覚めたのは深夜だか明け方だか判然としない時間だった。
視界いっぱいに天井が映って、自分が寝起きにも関わらず目を見開いていることに気がついた。生温い空気を吸い込んで、つい今まで感じていた幸せがすべて夢による幻であったと理解する。息を吐くと全身の力が抜けると共に先ほどまで圧迫感を覚えていた心臓のあたりが急に空っぽになったような感じがして、幸せには質量があるんだろうか、と少し思案した。
何はともあれ失くしてしまってよかった。あんな幸せは抱えていてはいけない。先に見た夢によって「幸せ」を感じた自身がひどく愚かで情けなく、天井を見つめたまま涙がこぼれた。
幸せ以外の表現をするならば、その夢はとても綺麗だった。
もしその夢を第三者が見ていたらどこかの短い映画だと言ったかもしれない。それほどまでに良くできた幻だった。
しかし、自身の欲を捨て置いたパンドラの箱の中身を知っている手前、その綺麗な夢がどれほど欲に汚れていたかは自明のことであった。体よく整えられたヘドロのようなご馳走を、空腹に慣れた心にこれでもかとたらふく詰め込んで満たされた気持ちになっていた。
悲しきかな、筆者は夢の中では夢を自覚できない人種なのである。
自分に都合の良い未来というものを誰しも思い描いたことがあるだろう。その妄想を脳内でどれほど展開しようが個人の自由であり咎められることではないが、それを現実のことと勘違い(且つ実行)するのは禁忌への第一歩である。その一歩を踏み出さぬよう通せんぼをするのが人間の理性の仕事であるから、日常生活を営む上で独りよがりな妄想が暴走することは基本的にない。
しかし眠っている間はどうか。
しっかり仕舞い込んでいたはずのifがひとりでに無意識の領域に染み出して、夢という形をとって具現化する。夢の中で妄想が実体化したことにより、無意識という免罪符を片手に此度私は禁忌を犯した。
捨てたはずの醜い塊を勝手に拾い上げ私の眼前に突きつけながら、綺麗な顔をした何かが「お前は言葉では誠実でありたいなどと言っているが見えない心のうちではどうだ」と詰め寄ってくる。不誠実さは常に心を啄んでいて、必死でそれを払い除けて誠実であろうとしているのだ。綺麗な顔のお前に何がわかる、わかられてたまるか。
二度寝をすれば夢の続きを見ることができるのが私の数少ない特技のひとつであるが、この日ばかりはそれが仇となり眠るのが恐ろしかった。
夢の内容は記録していなければそのうち忘れる。厄介なのは、内容に関わらず一度心が満たされた「経験」が私の中に生まれたことだ。
もう二度とあんな夢を見ませんように。そう願うことすらも虚しくて、やるせなさを誤魔化すように目を閉じた。
夢日記 - 2 -
5月12日の夢
覚えていない方がよいのかもしれない。
夢を見てそう思ったのは久しぶりだ。
私がいたのは、土壁がほとんど崩れ、表面が擦れた畳の部屋だった。不思議なことに、ここは自室であるという認識が頭にあった。
くるくるネジを回して鍵をかける古いタイプの窓の外は灰色で、部屋に不釣り合いな大きく分厚いテレビとくたびれた布団、久しく見ない床の間が目に入る。
テレビ映る荒い映像は赤黒く点滅しており、人間だか動物だかが忙しなく動いているのがなんとなくわかった。
砂嵐のように乱れた音を聞きながら、この部屋から出なくてはならないと直感が言っていた。自室のはずだったが、ここにいてはいけない気がした。
窓ガラスと枠に隙間があるようなガタついた引き戸を開け、廊下に出る。今いるところはどうやら2階らしく、右を見やると下へと続く階段があった。廊下はこげ茶色の古い床板であるのに、階段は無機質な打ちっぱなしのコンクリート色をしていた。
急な階段を降りてゆき、ドアノブを回して外に出る。するとそこは白い霧に覆われていた。遠くに運動場らしきものが見え、そこを1人の青年がぐるぐると走り回っているのがかろうじて確認できた。
ここはどこだ、ここにいてはいけない。
冷や汗が背を伝う感覚がすると同時に、弾かれたように後ろを振り向くが、今出てきたはずのドアがない。
理由のわからないただならぬ絶望感を感じると共に、意識が遠くなり、
私は布団から飛び起きた。
バクバクと心臓が鳴り、じっとりとした汗を感じる。飛び起きたところは先程のくたびれた自室。さっきのは夢だったのだ、よかった。
安堵と共に布団から起き出し、私はアルバイトへ行く準備をする。普段よく羽織っているadidasのブルゾンに袖を通し、つい先日新調したキーケースに手を伸ばす。
此度テレビの電源はついておらず、画面に反射した自身をみやり、身だしなみを確認する。
さっきはどうしてドアがなくなる夢なんて見たんだろう。そんな疑問を抱きながら、私は再び引き戸に手をかけようと手を伸ばす。
ふとそこで、ここが事故物件だという噂があったのを思い出した。嫌な汗が出る。一人暮らしの境遇を恨んだ。
引き戸の向こうに何かの気配がするのだ。
今から人を呼んでも間に合わない予感がした。私は意を決して引き戸を開け、できる限りの速度で階段を駆け降りようとした。
すると天井の方から声が降ってくる。
「前を向くな。私を視認すれば命はない。」
もう遅いわ、という苛立ちを感じたのと同時に私は“何か”を見て、階段を転げ落ちて気を失った。
と、ここまでが夢で、次こそは現実の自室、ベッドの上で目を覚ますことができた。
夢の中で目が覚めてみると、実はまだ夢の中であった、なんて話は時たま耳にするものの、実際に経験したのは初めてだったし、何より2度目の夢の中私は、これは現実だと謎に確信を持っていた。現実だったらたまったものではない。
しかし、無事目が覚めてよかった。
今日仕事中にクレーム受付をすることになったのはきっとこの夢のせいだ。そう思わずにはいられない不快な夢だった。
家から出たいのに出られないというのは、何かしらの抑圧によるストレスの表れらしいと夢占いでは書いてあったが、思い当たる節がないので考えるのはやめることにする。
2021.5.12
夢日記 -1-
駐車場で人を待っていた。すると、1人の女学生がペットらしきコブラを連れてやってきた。車から物を取り出す間、このケーキを持っていてくれないかと言われ、小さな箱を受け取ると同時に、足元にいたコブラがこちらへ突進してきた。
驚き焦った私は、広い駐車場を縦横無尽に逃げ惑う。コブラは遠慮なく私を追い回し、飼い主である女学生はこちらの様子に気がつかない。ケーキの箱を持っていることを忘れるほど、必死に走り回っていると、ようやく女学生は私の状態に気がついて大声をあげる。
「足を止めて!コブラちゃんの求愛に気がつかないの!?!?」
意味がわからず静止すると、コブラはゆっくりと寄ってきて何やら求愛らしい動きをする。実際のところそれが本当に求愛行動なのかは全くわからないが。
女学生は、肩で息をする私からケーキ箱をひったくると、涙をボロボロとこぼし始める。
「コブラちゃんのバースデーケーキだったのに。めちゃくちゃにするなんてひどいわ。」
咄嗟に「申し訳ない」と謝罪の言葉を呟くが、よくよく考えずとも私は先程まで生命の危機を感じていたのだ。そもそもケーキ箱を私に持たせた女学生が悪いのではないか…?
混乱したままの私などお構いなしに、女学生は泣きながら駐車場を去っていくのであった。
2020.12.27に見た夢
(完)